→log →back to top 20081214 ・ぼんやりとする 『あくまで淡々と、何ものにも関わらず、静かに過ごしている時間は非常に貴重。単純に引き篭もりというととても通りが良い。わかりやすい表現であるし。ぼんやりとする目的を持って、ぼんやりとしよう。とどのつまり、無駄な時間を過ごそう』 というわけで、一歩も外に出るまいと心に決めた日曜日が始まった。 タワレコでオススメされていて、視聴してみたら「あら素敵」と思い買ったグレゴリー・アンド・ザ・ホークをとりあえず垂れ流すことにした。レーベルが同じらしいが、こういうときに引き合いに出されるシガー・ロスとムームすげえな、というかあの棚に出てたアーティスト紹介にほぼこの二つが挙げられてたけどみんな同じレーベルでそのふたつに影響受けた音楽だったってこと? と思いながら僕はぱらぱらと漫画の頁を捲っていた。鬼のように買い込んだので読んでも読んでも次があった。素晴らしいことこの上ない。でも部屋に漫画を置くスペースがなくなってきた。また一度整理しなければならない。 よしながふみ先生が「きのう何食べた?」の新刊を出していた。「大奥」の四巻が年末に発売されるとのことで、それでまた楽しみが増えたぞよしよし、とほくほくしながら読む。内容はというと、淡々と男が料理を作って、相方に食べさせ、身の回りに起きるちょっとした出来事と供に日常をひたすら繰り返していますよ、というもの。主人公は中年のゲイで同棲している相方は勿論男で、でも性的になまなましい描写は一切無い。とにかく飯作って食べる漫画――が何故こんなに面白いんだろう。心の動きを見せる漫画は良いものだな、としみじみ思いながら読了。一息ついてお茶を飲む。 お腹が空いてきたので蕎麦を茹でる。それに卵と薩摩揚げと刻み葱を入れるたけで大変素晴らしい食事ができあがった。お手軽でよろしい。食事用に月間漫画雑誌を台として使うのは如何なものか、テーブル買ったほうがいいんじゃないの、いやいやもう置く場所ないんだっつうの、という思考と供に美味しく蕎麦をいただく。食べるのが幸せだというのは、多分間違いじゃない。食事が喉を通らない程の悩みがあるなら、一刻も早くそれを解消してまず少しでも食べることを始めるべきだ。量は多くなくてもいい。何かを口にする、という行為そのものに対して、身体は生きるための反応を示すのだから。 適当に食器を片付けて、ふと、寝起きからまだ一本も煙草を吸ってないぞということに気付く。こういう「ふと」気付くことというのは、それだけ身体に染み付いてしまっていることなのねえ、とまた勝手に独りで納得する。大事なことなのかどうかは、わからない。 漫画もまた読書。我が家にある本は活字と漫画の比率が1:9の割合のように思う。贔屓目で2:8。漫画もほぼ単行本で、三ヶ月前まで買っていた月刊誌はもう購読をやめた。面白いと思っていたものだけチョイスして単行本で買うことにした。これでもう、定期的に買う漫画誌は「マンガ・エロティクス・エフ」だけになってしまった。ただでさえ季刊に近いのに星野リリィ先生は連載を休みすぎだと思う。表紙を飾ってるにも関わらず中に連載が無かったときのショックといったらもう。 次に手をとったのが、伊坂幸太郎の名前が原作についていて「おや」と思い買った漫画版「魔王」。原作作者の作品は大概眼を通していたので、漫画を読み進めているうちに内容が原作「魔王」以外の作品が多分にクロスされていることに気付く。具体的に言うと「グラスホッパー」が大きく物語に混ざっている。人物の年齢など、世界を構成する要素も若干異なる。そのうち「ラッシュライフ」とか「オーデュポンの祈り」も混ぜてきそうだなあと想像しつつ、既刊として出ている六巻分を全て読みきる。煙草消費本数二本、お茶飲み数二杯。爽健美茶がやたらおいしい。爽やかで健康で美しくなるお茶なんてすばらしいネーミングだ。 本を読んでいるときは、周りの音のボリュームがやたら自分の中で絞られてしまうらしい。話しかけられても気付かないことが多い。面白いものが眼の前に展開されているからか、我ながら単純だ、と思いながら大石まさる先生の「水惑星年代記・月娘」を手に取る。このひとなんでこんな身体つきにまるみのある女性を描くのが上手いんだろうかと嘆息する。物語には夢があって、どこまでも果てしなく続く先を思わせる。前シリーズを購入した際は「ブラッドハーレーの馬車」の後に読んだから、極端に落ち込んでしまった気分が程よく中和されていく感じを体感していた気がする。懐かしくなって、既刊の五冊に全て眼を通す。 そういえば、自分で数々もの漫画を買い込んできて、他人に勧めたことってあんまりないな、ということをはたと煙草を咥えながら思った。多分言葉が足りないからだな、とまたいつもの思考に立ち戻る。その考えを別な場所にぽいっと置いたとしても、そもそものところ紹介できる漫画も限られる。少年漫画から少女漫画、話が面白ければいやらしいものも生々しいボーイズラブも買う。と言っても後者についてはbasso(オノナツメ)先生のものしか持ってない、ので、「ボーイズ」と表現して良いのだろうか、と、碌でもないことを思いながら全て読了。何冊だったか数えるのが面倒になった。散らばってるから。 適当に部屋の脇に本を並べておいて、PCの前に座してみれば、先ほどから垂れ流していたBGMが既にアルバム再生回数で七周くらいしている。普段音楽を買っても外国のアーティストのものについては殆ど歌詞を見ず、単にその音感だけを楽しむ場合が多い。が、この時は何故か、BGMとして流れていた音の中で、妙に耳に残るものがあったから、付属のライナーノーツに眼を通してみることにした。本当に珍しいことだった。 big open land you hold the weight of the air in your hands big open air you feel the tickle of the trees on your chest why'd you go and waste it the things that you know are making you a stone wall, stone fence your stories so old you just tend to keep them long winding road you've got a secret but you won't share it ―― 広々とした土地 あなたは両手の中の 空気の重みを握りしめる 広々とした空 あなたは木々が 胸をくすぐるのを感じる どうしてそれを無駄にするの あなたが知っていることがらが あなたに石の壁と石の塀を作る あなたの話は古すぎる なのにしがみつこうとしている 曲がり、進む、長い道 あなたには秘密がある なのにそれを明かそうとしない 『Stonewall, Stone Fence』 Gregory + The Hawk ―― 紛れもなく、言葉通り、詩であると思った。 それ以外の言葉を上手く吐き出すことが出来ず、とりあえずまたお茶で口を湿らせる。そうした処で、僕の言葉は滑らかにならない。なんなのだろうか、これは、と。ああだめだ、眼の前がちかちかする。こんな詩を、こんな歌で唄われたら、堪らなくなる。歌詞など見なければよかった、でもやっぱり見て良かったのだ、という思いは半分半分だった。 一日中開かなかったカーテンに手をかけて、ついでに窓も開け放つ。冬のつめたい空気が入り込んで、燻る煙草の煙は外に流れていく。夜になる。夜になる。もう、日曜は終わるのだ。 20081216 一昨日の自分が書いた文章は、残り数行のメモを残して止まっている。我ながら中途半端な性格がよく現れているものだと思いながら、ほったらかしておくといつまでもそのままだし、未完のままで終わらせることにした。よほど漫画の話が書きたかったのだろう。一昨日の僕は今の僕ではなく、おーいおーいと呼びかけても声は届かない。 『僕は僕の目的に沿った時間を過ごした、窓の向こう側はとてもくらくてとても透明なことがわかる、そして外は石の壁と石の塀に囲まれている、知らないことがらを以てしてもそれらは聳え立つ、ただそれだけを何となく知っていると言ったら、また新しい石が立ちはだかる』 20080925 ・そうやって流れていく 大方、辛い時間というのは自分にとって長く感じられる。そういうとき、「それでも空は高くある」だとか、「それでもまた陽は昇る」だとか、今までは少なくとも経験できた、そしてこれからもきっと続くに違いないと思えるようなものに眼を向けたくなる。その方向に、自分が向かい合わなければならないものはない。 「それでも空気は透き通っている」。空気は、そこらじゅうを歩いて触れる空気は、透き通っている。けれどそれはいつも、自分が思っている以上ではない。それでも、それでも。 (1:19) 20080815 ・MONO / world's end girlfriend 「こういう時に流れて欲しい音楽」の「こういう」を説明するのが勿体無くなるような時に流れて欲しい音楽。 20080812 ・こういう日はなんとなく覚えてる 五年という数字に対して、「あっという間」だと表現するのはなんとも陳腐で、しかしその五年前の自分は遥か遠くに居座っていて手が届かないのだ。別に遥か遠くなくても、一分でも一秒でも、このキィを叩きつけている時間が過ぎ去った瞬間に、過去になった自分に触れることすらできないのは、当たり前のこと。言葉は確かに残るけれども、これらは欠片であり、断片だ。全て、にはなりえない。でも、だからこそ、書くことによって少しずつ埋める価値があるように思う。散らばったパズルピースの型が全然合わなくて、どんな模様が描かれているかもわからなくて、それでも埋めていく。埋めていくつもりで、降らせていく。ところどころで意味が通って、描きたい絵の切れ端が出来上がって、それだけで喜ぶかもしれない。そうしていつしか、雪のように平らかな面にはならなくても、いびつなガラクタの山を作り上げる。自分だけの。こうやって書くのは、またひとつ残すために。今のままでは山にもなりはしないから、いつか出来上がる山の天辺で、描きたかったものに届きはしないだろうか、とも考えているのだ。伝わらないことを描くのはつかれる、という言葉は、「誰かに伝えたいんだよ」と他者を前面に置いておきながらも畢竟自分に対する言い訳だから、とても自分にとってやさしく楽で、そしてそれは、ゆるやかに僕をころす。言い訳は、眼の前の事実を濁すことで、転がっている答えから逃げることに似ている。「そんなことでは死にはしないよ」と言われる多くのことに対して、何のペナルティが課されないということもない。身体のかたちを保ったまま死んでいくのに充分なことだって、確実にある。それは眼では捉え辛いもので、ある一定の時をかけて、じっくりと、侵食していく。そうしてある日それに気づいて、しんでしまう。曖昧なかたちを保ちながら、手遅れになる。 「描きたいから、描く。いいだろう?」 他の誰かへ向けたものではなく、何よりも自分に対して、その言葉を納得させなければならない。単純で、かつ自分にとっては難しいのだけれど、その「難しさ」を言い訳にしないように。僕にとって、書くことが何においても、逃げることに繋がってはならない。 というわけで、五周年のようです。大学時代の友人に祝辞を頂きましたけど、一ヶ月早かったよ! 今日です。これから六年目に突入するわけですが、麦酒呑みながら今日もいきてます。 訪れてくれた方に、感謝を。 (2:04) 20080520 ・とおいひとへ おつかれさまでした。遅ればせ。 また、いつかどこかで。 (1:56) 20080513 ・バトン +置くだけバトン+ _ | | | | | | | | | |  ̄ *ルール* 見た人は自分の日記に↑のバトンを置いてください。 ―― やられた…… (2:02) 20080507 『遠くのつれづれ』 入院をしたことがある。 そんなつれづれ。 ――― 絶食五日目。 とにかく、お腹が空いてしょうがない。 現在使用している点滴が一本200キロカロリーで、大体日に三〜四本。 多くて800キロカロリーの栄養を摂取しながら、僕は命を繋いでいる。 「しばらく身体にあるお肉でしのいでくださいね」 なんて看護士さんは言う。これ以上やせたくないんだけれど。 食べられないのは辛いよね、がんばろうね、と。この階に居るスタッフは励ましてくれる。なのでこころはちょっと癒されて、満たされる。 口から摂れば800キロカロリーなんて本当にあっと言う間なのにな、なんて思っている内に、お昼の時間がやってきた。 食事は自分のベッドで摂るか、ロビーにあるテーブルで食べるかにわかれる。どちらにするかは、患者さんによってまちまちだった。歩けるひとはトレイを自分で取りにいくので、ロビーで食べる場合が多い。 僕はロビーのすぐ隣の長椅子に座っている。前の入院をしたときも、僕は殆ど自分のベッドに居なかった(回診時には居たが)。 消灯時間がくれば部屋は暗くて、それでも廊下なら電気が少しは点いている。夜長そこで本を読んで、そのまま長椅子で寝てしまうことなんてしょっちゅうだった。 それを受けて、ほとんどその場所の「ぬし」と化していた。大分御年を召したおばあちゃんに、『守衛さんですか? お疲れ様ですねえ』と、深々とおじぎをされたことがある程。それ位、いつも居た。守衛ならそれなりの格好をしているだろうに、という野暮な突っ込みを、おばあちゃんにしたことは無い。 ともかく、自分が座っている長椅子が、入院中のテリトリーになるのだろう、とは感じている。もう一つ居場所が出来るとしたら、それは喫煙所だ。 とりわけ此処には大きな窓がついていて、五階という高さから海を臨むことが出来る。居心地は良かった。 食事を摂りにきたひと達が、話をしている。その内数人が、ロビーのテーブルにつく。いいなあ、と少し羨みながら、僕は本を読んでいる。 此処に居て辛いことといえば、辺りの食事の香りが、空腹中枢を刺激することだ。 いたたまいられない、けど、我慢。 時間の進みは、普段より遅い。いくらでもゆっくりできる。 『処置;安静』なので丁度良いのだが、流石に手持ち無沙汰。 途中、頭痛が激しくなったので、睡眠を摂ることにする。眠っている最中の時間の流れは、当然の如く把握できない。目覚めたときの時計の針が指している時間、それが全て。丁度、夕飯のアナウンスが流れ始めていた。 どうせ食べることが出来ない僕は、逃げるように喫煙所へ。手術が近くなれば、禁煙を促されることには間違いないのだから、早めにやめることに具合が悪さなど何もないだろう。あるとすれば僕の脳くらい。なので吸う。 点滴台をガラガラ押しながら、エレベータへ。病院のエレベータという奴は、なんとなくものものしい。何故だろう。理由はなんとなく分かるのだけど、口にしないことでそれを収める。 三階まで降りたところで、親子連れが乗ってくる。お母さんと思しきひとは随分若く、その子供は3〜4歳といったところ。この時間に私服、ということは、誰かの見舞いだろう。 暫く無言だったが、エレベータが一階に着いたところ男の子と眼があったので、にっこり笑って手を振ってみた。 お母さんもそれに気付いて、 「お兄ちゃんがバイバイだって。お返事は?」 と言う。お兄ちゃんと言ってもらえるなんて、そんなに僕は若くない訳だけど。 それを受けて男の子は、バイバーイ、と。にこー、と笑いながら返してくれたのだった。 で、先に親子を降ろそうと思ったのだけど、遠慮されたので僕が先に出た。点滴台を持っているので気を遣ってくれたのだろうか、などと思う。 ところが、僕に続いてエレベータを降りる気配がない。 「どうしました?」 そう声をかえけると、母親がちょっと笑いながら。 「あの……これじゃ、降りられないので」 と、眼線を下へ。 あ。 「スリッパ……」 靴に履き替えるのを、忘れたようだ。親子共々、足元でキティちゃんが笑っている。 まあ、よくありますよね。こちらも、ちょっと笑って返す。 エレベータが閉まる直前、「バイバーイ」と、男の子が手を振ってくれる。うん、バイバイ。 ちょっとそそっかしい親子だった。また逢えればいいな、と考えつつ。想いは叶わないのだろう。階が違えば、それは世界が違うということだ。三階が何科だった、ということを、僕は調べようとしない。 世界の繋がりはエレベータだけで、再会を望むには、あまりにも細い。 そして、今は喫煙所。珍しく、入院中も外来も含めて、他にひとが居ない。安心してノートを広げられるというものだ。いつもノートとペンを持ち歩いているけど、とりあえず周囲には「趣味です」と言ってある。嘘ではない。 煙草を深く吸い込んで、また吐き出して。せめて、あの親子が見舞っていたひとが、無事に退院できればよいな、などと思う。まあ、僕がどうなるかは、ひとまず置いておくのがいい。 これは、残すためのノートだ。パソコンが、少し恋しい。 三年後くらいに、しれっとこの文章を、タイピングしているのかもしれない。 20050115 三年経ったから、こんなのもいいのじゃないでしょうか。 ちなみに今はお兄ちゃんと呼ばれるほど若くもないし、絶食した方がいいんじゃねえのという位にお肉はついてます。怒られそうなので運動することにします。 20080122 ・書き出し みなさま、よろしくおねがいします。 遅ればせ。 色々と変わらないのが、多分良いです。 退屈は、多分ないです。 相変わらずですよ? あさくねむります。 おやすみなさい。 (23:52) |